「豊かさと貧しさ」
5月16日付天声人語に次のような記事があった。
「(天声人語)ホセ・ムヒカさん逝く
2025年5月16日
貧しさとは、何だろうか。いや、それを言うならばむしろ、豊かさとは何かと問うべきか。「世界で最も貧しい大統領」と呼ばれたウルグアイ元大統領、ホセ・ムヒカさんが逝った。89歳だった▼「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に欲があり、いくらあっても満足しないこと」。もはや伝説である2012年の国連演説で、世界は彼を知った。「私は質素なだけで、貧しくはない」▼その言がじわりと響くのは、私たちがいま、豊かさの喪失とも言うべき時代を迎えているからではないか。日本のGDPの国別順位は下がり、成長は足踏みが続く。社会全体が小さく縮みつつあるなか、富裕というものの空虚さを、嗤(わら)いたい人は少なくないのだろう▼かたや貧しさとは「生きていく上での選択肢を奪われることだ」。遺児の支援活動をする大学生の投書が、少し前の本紙にあった。やるせないのだろう。放っておけば資本主義は富を集中させる。30兆円を寄付すると発表したビル・ゲイツ氏が「私は良い手本を示したい」と唱える所以(ゆえん)である▼豊かさも貧しさも、時代によって姿を変える。20世紀の初め、貧困が飢餓と直結していたころ、河上肇は『貧乏物語』で贅沢(ぜいたく)さを論じている。「人は水にかわいても死ぬがおぼれても死ぬものである」▼ムヒカさんの弁に戻ろう。「私たちは経済発展するために、この地球にやってきたわけではありません」。人間の幸せとは、何なのか。深遠な問いは、いつまでも消えない。」
ホセ・ムヒカ元大統領については以前何かの記事で目にしたことがあり、世の中の政治家が全てこのようであればと思ったものである。
また、先日のビル・ゲイツ氏の巨額の寄付の発言についても驚かされた。
5月25日付朝日新聞のビル・ゲイツ氏とのインタビュー記事には次のように書かれている。
「――今回、ゲイツ財団を通じて約2千億ドル(約30兆円)を投じることを決めたきっかけは。
今年を選んだのは財団設立25周年というだけでなく、「内省」の年だからです。私は70歳になります。父が生まれてから100年、マイクロソフト創業から50年です。私たちはマラリアを終わらせることができるのか、ポリオをなくすことができるのか、小児の死亡者数を半減させることができるのか――と問い直しました。そして、米国や他の国々でその資金が削減されていることに驚きました。
私は良い手本を示したいと思いました。慈善家が思いやりをもつことで、社会が富裕層に少しでも期待してくれることを願っているのです。
――米国のトランプ大統領は、国際開発局(USAID)を事実上解体し、様々な途上国支援が停止しています。どう受け止めましたか。
このような削減のせいで、毎年亡くなる子どもが減るどころか増えている。こんなことは初めてのひどい状況だと思います。これまで米国などの豊かな国々の寛大さによって、私たちは死者数を減らしてきました。しかし、現在の資金削減は米国でかなり大きなもので、欧州でも減らされています。
私はUSAIDの資金を元に戻すかどうかの最終決定権を持つ米国議会への働きかけに多くの時間を費やすつもりです。グローバルヘルスは民主党も共和党も支持してきたので、大きな政治問題にはなってきませんでした。このような削減が最小限に抑えられることを願っています。」
古今東西、人の欲望には限りがないと言われているが、世の中に種々争いごとが絶えない一因は、人の欲望に起因するものであることは論を待たない。
例えば大きなものとしては、戦争などは指導者たちの領土欲、権力欲、物欲などに起因する最たるものであろう。
動物は腹を満たせばそれ以上獲物を追いかけることはしないと言われているが、人間の場合はそうではないようである。
しかし一方で欲のない人がいるのも確かである。
前述の人たちはその例だろうが、人々の間でこの欲というものがなくなれば、世の中も平穏無事、皆幸せに暮らしていけると思うのだが。
「足るを知る」という言葉がある。当方若い頃はあまり深く考えたこともなかったが、定年後余生を送るようになって、この言葉の持つ意味が身に染みて分かるようになった。
ネットで検索してみると、この言葉の意味について次のように書かれている。
「「足るを知る」とは、古代中国の思想家、老子の言葉です。 「足るを知る者は富む」、つまり「何事に対しても、“満足する”という意識を持つことで、精神的に豊かになり、幸せな気持ちで生きていける」ということを表しています。 不満を言っても、自分がミジメになるだけで状況は変わりません。」
「「足るを知る」とは、現状に満足し、感謝の気持ちを持つことです。 どんな境遇でも、今あるものに喜びを見出し、過剰な欲望に振り回されない生き方を指します。」
当方、時代小説では江戸時代の長屋もの(人情もの)が好きでよく読んでいるが、登場する人々はその生活は決して豊かなものでなくても、お互いに助け合い、殺伐とかギスギスしたものとは無縁に生きている。歴史的事実に於いても実際そうだったのではないだろうか。そしてこれは、これら人々が足るを知っており、日常の些細な事にも楽しみを見出していたからではないだろうか。(ちなみに殺伐という言葉を調べてみると「うるおいやあたたかみの感じられないさま」とある)
但しここで間違えてはいけないのは、何もかも現状を甘んじて受け入れろということではなく、世の中の不合理なこと、理不尽なことに対しては当然反発していかなければならない。
要はその内容如何によるということになる。
このテーマについては書きたいことはまだまだあるが、書き出したら切りがないので今回はこの辺にしておく。
ともかくこの天声人語に書かれていたことは私が常々感じていたことでもあり、新聞記者というのは上手く簡潔に文章を纏めるものだと改めて感心した。